春の夜の夢

「花の香りがするわね」

ふと、君江がつぶやいた。

「本当だな。なんとも濃厚な香りだな」

私も君江に同感だった。どこか懐かしいような、高貴な香り・・・

私たち二人が家に帰る途中に、近所の家の前を通りかかったときのことだった。

その近所の家は、垣根で覆われていて、中は、あまり見えない。しかし、既に家の入口には『売り物件』との立札が立ててあり、家も垣根も荒れ果てているように見えた。

しかし、だ。

その香りは、二人の嗅覚をくすぐってやまない。

「あら、ほら見てバラの花だわ」

君江が荒れた垣根の間から、空家の中庭を覗き込んでいた。そして、何かを見つけたのだろうか?片手で私を呼んでいる。

「よせよ、みっともない」

私は、ちょっと、恥ずかしくなった。しかし、君江は興奮していて、私の声など聞こえていないようであった。

「ほら、行くぞ。」

少々、声を荒げて、私は歩き出そうとした。

その時、視界に入ってきたのは・・・

君江が動けない理由が、私の両目を釘づけにした。

「・・・」

それは、生まれて初めて見る風景であった。

赤・白・ピンク・オレンジ・黄色・クリーム・紫・・・

垣根の間から垣間見た中庭の風景は、月に照らされた極彩色が暗闇に浮き上がっていた。

家の壁面や、アーチには、バラが溢れんばかりに咲き乱れ、庭に敷き詰めたように植えられたバラは、まるで虹色の絨毯のように咲いていた。

そう、そこには、小さな楽園があった。

「ね、すごいでしょ?これ全部バラよ。」

君江は、珍しく興奮気味に声をもらした。私は、静かにうなずいた。

美しいバラの庭が、こんなに家の近くにあるんだなんて・・・。

偶然にしては、とんだサプライズであった。

さらに、そのバラたちが放つ芳香が、たまらない幸福感を感じてしまうのである。

しばらく、私たち二人は、何かに取り付かれたみたいに、その場に立ち尽くしていた。

やっと、その場を離れることができたのは、月が丁度雲に隠れた時だった。

二人は、まるで何もなかったかのように、垣根から離れると、再び家路に戻り始めた。

「ねえ?」

君江は、まっすぐ前を向きながらそうったので、私は、『うん?』と、耳を傾けた。

まだ二人の周りには、バラの香りが、微かに残っていた。

君江はちょっと照れくさそうにこう言った。

「バラ、うちにも植えない?」

それを受けて、私は小さくうなずいた。

気が付けば、二人は、月明かりの中、手をつないでいた。


たわいもない、春の夜の話である。

はぜみ's ストーリーズ

こんにちわ、ハゼミです。 このHPは、私はゼミの書く、短編小説や、長編小説が載っているものです。 お暇なときやいつもの世界から離れたい時など、隠れ家的に来てくださると嬉しいです。

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